義父、つまり嫁さんの父親が9月28日(水)未明、午前1時前後(この時間は「検案書」による)、
心臓疾患(検案書にはややこしい本当の病名があったが、いわゆる心不全と呼ばれるもの)により
眠ったまま安らかに静かに息を引き取った。享年77歳。7月の誕生日に喜寿を祝ったばかりだった。
と、事実だけをさらっと書くと、上記のようなあっさりとしたものになるんだけど、
実際はあまりにも突然で何がなんだか…そりゃ大変だった。
水曜日の朝6時20分過ぎ、いつものようにウォーキングから帰ってきてコーヒー淹れてPCに
向かっていたら自宅の電話が鳴った。早朝の電話ってやっぱりビクってするよね。
不吉な予感を感じつつ、その時は一番下のチビさんが起きだしてきていたので、
いち早く彼が電話を取ると義母から。嫁さんに変わってくれってことらしい。
二言三言話した嫁さんが電話を切るなり「じいちゃん意識がないらしい。行ってくる」と。
うちは嫁さんの両親と同じマンション内で、うちが6階、両親は4階に住んでるからすぐ行ける。
子供たちの登校準備中だったので、かわって朝ごはんを準備してたら嫁さんがすぐに帰ってきて
「じいちゃん死んでるわ…。とりあえず救急車呼んだからもう一度行ってくる。お母さんは
まだ心臓が動いてるんちゃうか、って言うけどたぶん死んでる。だってもう死斑出てきて
冷たくなってるもん」と至って冷静な状況判断にこちらが多少面食らったんだけど、その頃には
サイレンの音が聞こえ出して救急隊員が到着した様子。嫁さんが先に降りて行って、
こちらは呆然としてる子供たちに、とにかくどうなるかわからんから、学校に普通に行く
準備を続けるよう言いつけてとにかく4階へ。
4階に着くと嫁さんが「やっぱり死んでるって。救急ではもう対応できないので警察呼ぶって」。
その頃には隣のマンションに住む嫁さんの妹夫婦も駆けつけてきていた。
その後、子供たちのこともあったので何度か4階と6階を行き来したように思うんだけど、
はっきり記憶にないんだよね。
ひとまずこの後がどう動くのかまったく予想がつかないので、子供たちの学校をどうするか、
だったんだけど、中学生の2人はこの日がなんと文化祭の当日。劇やら音楽発表やらみんなで
練習してきた発表の日だけにできれば穴を開けさせてやりたくないし…う〜ん。
ひとまずは途中で学校に電話して呼び戻したりすることになるかもわからんけど、いつも通りに
登校させることに。結局呼び戻すことはなかったけど、気になって集中なんてできんかったやろな、
と思うとちょっとチビさんたちには気の毒なことをしたかな…。
小学生の一番下のチビさんだけは休ませて一緒に行動することに決める。
登校前におじいちゃんに挨拶してからということで子供たちも全員4階へ。
その頃には、救急隊員との引き継ぎで先に到着していた制服警察官2名に加えて、
私服警察官2名も到着していた。
病院などでお医者さんに看取られてとかではない、今回のような自宅で突然のような場合は
念のために警察が事件性などがないかを確認してから、監察医による死亡診断書にかわる
「検案書」を作成、それをもって役所へ埋葬許可をもらうことになるとのこと。
意識のない義父を発見したときの様子から、昨晩最後に見た時の状況、持病の有無、
これまでの大病や手術・入院歴、今現在のかかりつけの病院全部と処方箋なんかも
全部こと細かく確認される。私服警察官が写真もいっぱい撮ってたなぁ…。
9時前後には監察医が到着して警察官からの聴取内容の伝達と、最終の検分が行われた。
11時半には「検案書」ができているので監察医の病院まで取りに行くこと、その後
警察に立ち寄って書類の最終確認をすること、その後に市役所にその書類をもって
埋葬許可を得ること、葬儀の準備はこれらの手続きを待たなくても先に葬儀社などへ
連絡を入れて同時に進めておいても良いことなど、これからの段取りを一通り言い残して
警察も丁寧なお悔やみを残して引き上げてった。
義父は警察出身なので、葬儀をどうするかってことになったんだけど、生前から義父本人も
「葬式なんかせんでええぞ」と常々言ってたことと、義母も大層なことはいやってことで、
まぁとは言えホントに何もしない訳にもいかんだろうと、とりあえず警察関係は声をかけずに
親族葬にして、家族と近しい親族だけでやっちゃおうということにまとまる。
10時過ぎには葬儀社のコーディネーターに来てもらって、そこからは細かい打ち合わせ。
この頃には東大阪に住む嫁さんの一番下の妹夫婦も2人のちびっ子たちとともに到着してた。
この打合せが、いろいろと聞いていたのでわかってはいたんだけどやっぱり大変だわ。
祭壇やお花、棺、霊柩車、お寺さん、通夜振る舞い、精進上げ、初七日法要まで取りまとめ等
その他諸々と細かいことを決めて行かないといけない。
ひとまず28日水曜日その日は、午後3時半ころから「湯潅」をお願いして一晩は自宅で安置。
29日木曜日午後3時にお迎えに来ていただいて納棺、午後6時にお通夜。
30日金曜日午前11時から葬儀・告別式、火葬、骨あげ、遺骨迎え、初七日法要と予定が決まる。
こうやって主だったことだけスケジュールを書き出すと、結構時間に余裕があるように
感じるけど、実際はもうまさに「あ」っと言う間のこと。
嫁さんは長女なので、お義母さんもやっぱり我々夫婦を頼ってくるから結構責任重大。
決め事の要所の決断を任されたり、通夜や葬儀の進行も一応喪主は義母なんだけど、
ご挨拶の代行などは、やはり長女の夫と言うことで自然と私が仕切るようになる。
嫁さんの妹二人の旦那が二人とも親族の葬儀を経験してたので、いろいろと助言を
もらったりして助けてもらった。こういう時には家族って心強いよね。やっぱり。
あまりにも突然だったので、義父が亡くなったなんていまだに俄には信じがたくて、
通夜振る舞いの席や精進上げの会食の席でも、すぐそばから
「わしはもうビールはええわ。焼酎にしてくれぃ」という義父の声が聞こえてきそうで、
義母とも「この席にお義父さんがいないのが不思議でしょうがないね」なんて話してた。
日頃から「わしは死ぬるときには迷惑かけずにすっときれいに逝きたいもんじゃ」なんて
冗談半分で話してた義父だったんだけど、本当に男気が強かった義父らしい、すっときれいな
見事な人生の幕引きをしてくれたなぁと、現実を信じられないながらも関心しきりという
何とも不思議な心持ちでいるのが今の正直な心境なんだよね。
義父とはじめて会ったのは嫁さんと付き合ってた頃で、当時は警察の捜査第四課、
所謂「マル暴」担当のデカさんだった。身長こそなかったけれど、柔道でならした
イカツイ身体にスキンヘッド、肩でブンブン風切って歩く姿は、遠目に見てても本当に
「恐ろしい」存在だったなぁ。
心臓バクバクで結婚したいってご挨拶に伺った時の「こちらこそよろしく頼んます」と
にっこり笑ってくれた顔が今でも忘れられない。
結婚してからは「わしにもようやく息子ができた」と、義父の馴染みの店に飲みに連れて
行ってくれて、うれしそうに「一番上の娘のムコさんじゃい」と紹介してくれたもんだ。
ここ最近は昔の柔道で痛めた腰の具合がずいぶん悪くなって、ほとんど出歩くことがなく、
一緒に飲みに出かけることもなくなっちゃったんだけど、元気なころの豪快にウマそうに
杯を空ける姿が思い出される。
はじめての孫に目を細めて喜んでくれたこと、
枚方に住んでた我々を吹田の今のマンションに呼び寄せてくれたこと、
外で腰の具合がどうにもならなくなっておぶって帰ったこと、
眠り込んだ義父をベッドに抱き上げて寝かせたこと、
一本気な反面ワガママでもあったので、うちの嫁さんとは
しょっちゅうぶつかってて、一度はつかみ合いの喧嘩をはじめて困り果てたこと、
腰が痛くてしんどくても家族での集まりを楽しみにしてくれてたこと、
二人で飲みに行くと必ず義母への感謝の話を繰り返してたこと…。
思い返すと色んなシーンが目に浮かんでくる。
あれだけ普段ぶつかってて「じいちゃんなんかとっとと死ねばいい」て口癖のように言ってた
嫁さんが、一晩自宅安置となった日に義父の枕元から離れずにポロポロと涙こぼしてた姿は
きっと一生忘れないだろうな。
「おじいちゃんは嫌い」ってうちの子の中では一番義父を嫌ってた一番下のチビさんが
葬儀のときに他の誰よりも声上げて号泣してたのもきっと忘れないだろうな。
義母も嫁さんも、今はたぶんバタバタっとやらなきゃいけないことに追われてて
気が張ってるからフツーに大丈夫そうなんだけど、少し落ち着いた頃がちょっと心配。
葬儀が済んだ翌日、10月1日が小学校の運動会だった。気持ちの切り替え難しかったけど
気が紛れる行事が続いてくれてかえって良かったのかなとも思ってる。
気候も涼しくなって喪服も苦にならない時期に、眠ったままですっと息を引き取って、
最期までできるだけ誰にも迷惑をかけたくないって言ってたそのままで他界した義父。
今頃は義母のおこごとを気にすることもなく、あちら側で大好きな酒を存分に飲りながら
「おまはんらはちょっとでも目を離すと心配じゃからのぅ…」なんてつぶやいてるかも。
まだ頼りないところもあるかも知れませんが、あなたの娘3人、それぞれの家族が
しっかりと力をあわせて、お義母さんをもり立てて生きていきます。
お世話になりっぱなしのままだったけど、本当にありがとうございました。
まだちょっぴりピンと来ないんだけど…どうぞ安らかにお休みください。