Steve Jobs の訃報

昨日このブログでApple Supportを絶賛したばかりなのに…。

狂信者のごとく傾倒していたわけでもないんだけど、
やっぱり常に注目していた人物には変わりないのでショックだな。

そもそもあちらの経営者にはあまり興味がなかったので、
その人となりなどを漁るように書物で読みまくった人物は、
このアップルのスティーヴ・ジョブスと
ザッポスのトニーシェイくらいしかいないんですよね。

だからこそ数少ない注目してたあちらの経営者…まぁ、ジョブスの場合は
単純に「経営者」の一言では語れない人なんだけど…なだけにショックは大きいなぁ。

ただただ、ご冥福をお祈りいたします。合掌。

Apple Support はネ申だ!

解決したらすぐにでもアップしておこうと思ってたMBA(MacBook air)の修理の件。
お義父さんの突然の他界で遅くなったんだけど、9月29日には
無事に修理完了して手元に戻ってきてて、このエントリーもそのMBAにて書き込みちう。

7月に購入したばかりのMBAがいきなりトラブったのは9月26日の月曜日。
早朝いつものように自宅で「出勤前のひと仕事」と立ち上げたときは、いつもどおりに
普通に立ち上がってくれて、バックアップも含めた必要な日課作業は全て問題なく完了。
その後、MBAを稼働させたままで出勤準備やなんかをして「さてさてツイッターでも…」と
マウスに手をかけたらポインターが動かない。
マウスをつないでいたUSBポートが認識されなくなってて、マウスが使えない。
「あれ?おかしいなぁ」と思って再起動させたら、そこから二度と立ち上がらなくなった。
電源を入れてもグレースクリーンのまま。
どうやらSMC(windowマシンで言うBIOSみたいなもの)すら動作していない雰囲気。
SMCのリセットコマンドの「shift」「control」「option」キーを押しながら
電源ボタンを数秒押し続けた後に、改めて電源投入するも同じくグレーアウト状態。
SMCが動かないのでブートローダーまで行きつけないとは思いつつも念のために
リカバリーコマンド「command」「r」キーを押しながら電源投入してみるもやはりダメ。

MBA
グレーアウト。いつものリンゴマークも?マークすらない

この状態になるとユーザーサイドではもうお手上げですな。

出勤の時間が迫っていたのでMBAを持ってそのまま出勤。
職場に着いて、別のwindowsマシンからApple Supportのサイトへ。
Express LaneからMBAを選択「起動または電源」にチェックを入れて
「ハードウェア製品のシリアル番号」を入力、アップルidでログインをして
「今すぐ問い合わせをしたい」の項目でこちらの携帯番号を入力して申し込むと
間髪入れずにサポート担当者から携帯に電話が入る。

これってすごく良いシステムだよね。

よくあるどこかのサポートみたいに、わざわざこっちから電話をかけて、その上さらに
担当者が空くまでただひたすら聞きたくもない繰り返しの保留ガイダンスを聞かされる、
なんてのにすっかり慣らされてるもんだから何だかすごく感動ものだ(笑)。

いやぁ、Apple Support は、ネ申!!ですな。

今回電話口で対応してくれたのは、ウエハラさんという男性スタッフ。
これまた昔々よくお世話になった「日本語ちゃんと通じてるんかいな?」と不安になる
東南アジア系のスタッフが対応するどこかのサポートと違って安心して話ができてGOOD!
状況を手短に説明すると、先にこちらで確認したことを改めて作業依頼される。
まずはSMCのリセット、そしてリカバリーコマンドでの起動。
もちろんどちらもダメなわけで、ハードウェア系のトラブルとの判断。
きわめて妥当で素早い判断です。◎(二重丸)。
修理担当のAppleCareで預かることになるとのことで、電話口でそのまますぐに宅配業者の
集荷の手配を完了してくれた。これまた素早い。ここまで電話での会話時間は
おおよそ10分程度だったかな?なんて素晴らしいんだろう。しかも、早いんだけど
決して事務的ではなく、とても丁寧な電話応対をしてくださった。

さすが! Apple Support は、ネ申!!ですな。

翌日、27日の火曜日午後一番でヤマトさんが集荷に来てくれる。
荷物の配送状況はヤマトさんの「荷物お問い合わせシステム」でWEB上から逐次確認できて、
28日水曜日の午前中にAppleCareに到着していることを確認。
AppleCareでの修理の進行状態も「修理状況」の確認WEBサイトでリアルタイムで確認可能。
当初電話で対応してくれたウエハラさんによると1週間前後のお預かりになる…ってこと
だったので、ヤマトさんのサイトでAppleCareに無事荷物が着いたことと、
「修理状況」サイトでステータスが「リペアセンターで受領」に変わったところまで確認して、
「まぁ2、3日してからまた確認してみよう」くらいに思ってたんだけど、なんと!
翌日の29日木曜日の午前中にヤマト便で「いとしの」MBAが帰ってきたからビックリ!!
「え?!なに?なんか問題でもあって返送されてきたの?」って一瞬疑ったくらい驚いた。
「修理状況」サイトでステータスを確認したら、MBAが着いた28日中になんと修理が完了、
その日のうちに出荷されていたから、そのあまりの素早さに嬉しいやら呆れるやら(笑)。

ホント Apple Support は、ネ申!!

帰ってきたMBAに同封されていた修理報告書によると、ロジックボードがイカれていたらしく
交換したとのことだった。
MBAはその筐体の薄さ・デザイン性から、パーツは極限まで簡素化されてるから、
液晶は別にして、本体の中ってキーボードとバッテリーとディスクドライブ以外は
ほとんどがロジックボードにオンボード状態で集約されてるみたい。
なのでロジックボードを交換…ということは具体的にその中のどのパーツがダメに
なってたのかははっきりわからない、というか、AppleCareとしてはわかる必要もなければ、
わかるまで調べる手間自体が無駄、という判断なんでしょうかね。
今回、感動するほど修理が早かったんだけど、要するに液晶とディスクドライブと
バッテリー以外で、ハードウェアの問題で動かなくなっている場合には、ほとんどのパーツが
集約されてるロジックボードを「そっくり入れ替えましょう」っていう決め事になってれば
無駄に時間かけてあれこれ調べる必要もないわけで「そりゃ早いわな」と。
MBAの修理関係でいろいろググッて見ると、ロジックボードを交換したっていう人が
結構たくさんいたので、そうなのかな?と邪推してみただけなんだけどね。
もしこの「邪推」が正解なら、こんなところでもアップルという会社の考える事は
頭ひとつ飛び抜けてるなぁ…とつくづく感心といったところでしょうか。

もちろん保証期間内なので修理は無償。ディスクドライブの不具合ならデータが全部
リセットされることも覚悟してたんだけど、ロジックボードの交換だけだったので
動かなくなる前と全く同じ環境ですぐに使うことができて、これまたラッキーだった。
ということで、わずかに足掛け3日、実時間にすると丸2日程度で戻ってきて、
まるで何事もなかったかのようにこれまで通りにキビキビと動いてくれてます。
こうしてエントリーして記録に残してでもおかないと、修理に出したことすら
忘れてしまいそうなくらいのあっけなさでしたとさ。

改めて、ホント Apple Support は、ネ申!!

report
修理報告書。一日で修理・出荷されてる。

 

clear folder
リンゴマークのクリアフォルダに入って来た

P.S. 今回のMBA緊急入院で、とりあえず代替機としてMacBook Proを引っ張り出して
3日ほど使うことになったんだけど、HDDとSSDの「差」をまざまざと感じることになりました。
Proも昨年の夏モデルで、しかもメモリーを8GB積んでるので、相当イケてるマシンなんですよ。
なのにその動作のモタモタ感たるや正直「耐えられないレベル」でした。
特にOSの起動時と各アプリケーションの起動自体と起動直後のファイル読み込み動作に
相当なそーとーなソートーな差がありますねぇ。もうHDDマシンには戻れません(笑)。

義父の最期

義父、つまり嫁さんの父親が9月28日(水)未明、午前1時前後(この時間は「検案書」による)、
心臓疾患(検案書にはややこしい本当の病名があったが、いわゆる心不全と呼ばれるもの)により
眠ったまま安らかに静かに息を引き取った。享年77歳。7月の誕生日に喜寿を祝ったばかりだった。

と、事実だけをさらっと書くと、上記のようなあっさりとしたものになるんだけど、
実際はあまりにも突然で何がなんだか…そりゃ大変だった。

水曜日の朝6時20分過ぎ、いつものようにウォーキングから帰ってきてコーヒー淹れてPCに
向かっていたら自宅の電話が鳴った。早朝の電話ってやっぱりビクってするよね。
不吉な予感を感じつつ、その時は一番下のチビさんが起きだしてきていたので、
いち早く彼が電話を取ると義母から。嫁さんに変わってくれってことらしい。
二言三言話した嫁さんが電話を切るなり「じいちゃん意識がないらしい。行ってくる」と。
うちは嫁さんの両親と同じマンション内で、うちが6階、両親は4階に住んでるからすぐ行ける。
子供たちの登校準備中だったので、かわって朝ごはんを準備してたら嫁さんがすぐに帰ってきて
「じいちゃん死んでるわ…。とりあえず救急車呼んだからもう一度行ってくる。お母さんは
まだ心臓が動いてるんちゃうか、って言うけどたぶん死んでる。だってもう死斑出てきて
冷たくなってるもん」と至って冷静な状況判断にこちらが多少面食らったんだけど、その頃には
サイレンの音が聞こえ出して救急隊員が到着した様子。嫁さんが先に降りて行って、
こちらは呆然としてる子供たちに、とにかくどうなるかわからんから、学校に普通に行く
準備を続けるよう言いつけてとにかく4階へ。
4階に着くと嫁さんが「やっぱり死んでるって。救急ではもう対応できないので警察呼ぶって」。
その頃には隣のマンションに住む嫁さんの妹夫婦も駆けつけてきていた。

その後、子供たちのこともあったので何度か4階と6階を行き来したように思うんだけど、
はっきり記憶にないんだよね。
ひとまずこの後がどう動くのかまったく予想がつかないので、子供たちの学校をどうするか、
だったんだけど、中学生の2人はこの日がなんと文化祭の当日。劇やら音楽発表やらみんなで
練習してきた発表の日だけにできれば穴を開けさせてやりたくないし…う〜ん。
ひとまずは途中で学校に電話して呼び戻したりすることになるかもわからんけど、いつも通りに
登校させることに。結局呼び戻すことはなかったけど、気になって集中なんてできんかったやろな、
と思うとちょっとチビさんたちには気の毒なことをしたかな…。
小学生の一番下のチビさんだけは休ませて一緒に行動することに決める。
登校前におじいちゃんに挨拶してからということで子供たちも全員4階へ。
その頃には、救急隊員との引き継ぎで先に到着していた制服警察官2名に加えて、
私服警察官2名も到着していた。

病院などでお医者さんに看取られてとかではない、今回のような自宅で突然のような場合は
念のために警察が事件性などがないかを確認してから、監察医による死亡診断書にかわる
「検案書」を作成、それをもって役所へ埋葬許可をもらうことになるとのこと。
意識のない義父を発見したときの様子から、昨晩最後に見た時の状況、持病の有無、
これまでの大病や手術・入院歴、今現在のかかりつけの病院全部と処方箋なんかも
全部こと細かく確認される。私服警察官が写真もいっぱい撮ってたなぁ…。
9時前後には監察医が到着して警察官からの聴取内容の伝達と、最終の検分が行われた。
11時半には「検案書」ができているので監察医の病院まで取りに行くこと、その後
警察に立ち寄って書類の最終確認をすること、その後に市役所にその書類をもって
埋葬許可を得ること、葬儀の準備はこれらの手続きを待たなくても先に葬儀社などへ
連絡を入れて同時に進めておいても良いことなど、これからの段取りを一通り言い残して
警察も丁寧なお悔やみを残して引き上げてった。

義父は警察出身なので、葬儀をどうするかってことになったんだけど、生前から義父本人も
「葬式なんかせんでええぞ」と常々言ってたことと、義母も大層なことはいやってことで、
まぁとは言えホントに何もしない訳にもいかんだろうと、とりあえず警察関係は声をかけずに
親族葬にして、家族と近しい親族だけでやっちゃおうということにまとまる。
10時過ぎには葬儀社のコーディネーターに来てもらって、そこからは細かい打ち合わせ。
この頃には東大阪に住む嫁さんの一番下の妹夫婦も2人のちびっ子たちとともに到着してた。
この打合せが、いろいろと聞いていたのでわかってはいたんだけどやっぱり大変だわ。
祭壇やお花、棺、霊柩車、お寺さん、通夜振る舞い、精進上げ、初七日法要まで取りまとめ等
その他諸々と細かいことを決めて行かないといけない。

ひとまず28日水曜日その日は、午後3時半ころから「湯潅」をお願いして一晩は自宅で安置。
29日木曜日午後3時にお迎えに来ていただいて納棺、午後6時にお通夜。
30日金曜日午前11時から葬儀・告別式、火葬、骨あげ、遺骨迎え、初七日法要と予定が決まる。
こうやって主だったことだけスケジュールを書き出すと、結構時間に余裕があるように
感じるけど、実際はもうまさに「あ」っと言う間のこと。

嫁さんは長女なので、お義母さんもやっぱり我々夫婦を頼ってくるから結構責任重大。
決め事の要所の決断を任されたり、通夜や葬儀の進行も一応喪主は義母なんだけど、
ご挨拶の代行などは、やはり長女の夫と言うことで自然と私が仕切るようになる。
嫁さんの妹二人の旦那が二人とも親族の葬儀を経験してたので、いろいろと助言を
もらったりして助けてもらった。こういう時には家族って心強いよね。やっぱり。

あまりにも突然だったので、義父が亡くなったなんていまだに俄には信じがたくて、
通夜振る舞いの席や精進上げの会食の席でも、すぐそばから
「わしはもうビールはええわ。焼酎にしてくれぃ」という義父の声が聞こえてきそうで、
義母とも「この席にお義父さんがいないのが不思議でしょうがないね」なんて話してた。
日頃から「わしは死ぬるときには迷惑かけずにすっときれいに逝きたいもんじゃ」なんて
冗談半分で話してた義父だったんだけど、本当に男気が強かった義父らしい、すっときれいな
見事な人生の幕引きをしてくれたなぁと、現実を信じられないながらも関心しきりという
何とも不思議な心持ちでいるのが今の正直な心境なんだよね。

義父とはじめて会ったのは嫁さんと付き合ってた頃で、当時は警察の捜査第四課、
所謂「マル暴」担当のデカさんだった。身長こそなかったけれど、柔道でならした
イカツイ身体にスキンヘッド、肩でブンブン風切って歩く姿は、遠目に見てても本当に
「恐ろしい」存在だったなぁ。
心臓バクバクで結婚したいってご挨拶に伺った時の「こちらこそよろしく頼んます」と
にっこり笑ってくれた顔が今でも忘れられない。

結婚してからは「わしにもようやく息子ができた」と、義父の馴染みの店に飲みに連れて
行ってくれて、うれしそうに「一番上の娘のムコさんじゃい」と紹介してくれたもんだ。
ここ最近は昔の柔道で痛めた腰の具合がずいぶん悪くなって、ほとんど出歩くことがなく、
一緒に飲みに出かけることもなくなっちゃったんだけど、元気なころの豪快にウマそうに
杯を空ける姿が思い出される。

はじめての孫に目を細めて喜んでくれたこと、
枚方に住んでた我々を吹田の今のマンションに呼び寄せてくれたこと、
外で腰の具合がどうにもならなくなっておぶって帰ったこと、
眠り込んだ義父をベッドに抱き上げて寝かせたこと、
一本気な反面ワガママでもあったので、うちの嫁さんとは
しょっちゅうぶつかってて、一度はつかみ合いの喧嘩をはじめて困り果てたこと、
腰が痛くてしんどくても家族での集まりを楽しみにしてくれてたこと、
二人で飲みに行くと必ず義母への感謝の話を繰り返してたこと…。
思い返すと色んなシーンが目に浮かんでくる。

あれだけ普段ぶつかってて「じいちゃんなんかとっとと死ねばいい」て口癖のように言ってた
嫁さんが、一晩自宅安置となった日に義父の枕元から離れずにポロポロと涙こぼしてた姿は
きっと一生忘れないだろうな。
「おじいちゃんは嫌い」ってうちの子の中では一番義父を嫌ってた一番下のチビさんが
葬儀のときに他の誰よりも声上げて号泣してたのもきっと忘れないだろうな。

義母も嫁さんも、今はたぶんバタバタっとやらなきゃいけないことに追われてて
気が張ってるからフツーに大丈夫そうなんだけど、少し落ち着いた頃がちょっと心配。
葬儀が済んだ翌日、10月1日が小学校の運動会だった。気持ちの切り替え難しかったけど
気が紛れる行事が続いてくれてかえって良かったのかなとも思ってる。

気候も涼しくなって喪服も苦にならない時期に、眠ったままですっと息を引き取って、
最期までできるだけ誰にも迷惑をかけたくないって言ってたそのままで他界した義父。
今頃は義母のおこごとを気にすることもなく、あちら側で大好きな酒を存分に飲りながら
「おまはんらはちょっとでも目を離すと心配じゃからのぅ…」なんてつぶやいてるかも。
まだ頼りないところもあるかも知れませんが、あなたの娘3人、それぞれの家族が
しっかりと力をあわせて、お義母さんをもり立てて生きていきます。
お世話になりっぱなしのままだったけど、本当にありがとうございました。
まだちょっぴりピンと来ないんだけど…どうぞ安らかにお休みください。